History of Women's Dress in France
1715 - 1799
この記事は数冊の書物を参考に書いた「18世紀フランスの女性のドレスについて」です。
なお掲載している画像は全てパブリックドメインのものです。著作権の関係でご紹介できない画像に関してはご了承下さい。
太陽王ルイ14世の統治時代が幕を閉じ、新たに5歳の幼王ルイ15世が即位した1715年の頃、それまでのフランスでは絢爛豪華で壮大なバロック様式が主流だったのに対し、時代は官能的で女性らしい繊細さが求められるロココ様式へと変わります。
貴婦人達の身に纏うドレスにもそれぞれの様式の特徴が見られ、ルイ14世の最後の寵姫そして内縁の妻であったマントノン侯爵夫人が宮廷に義務づけた「慎み深く、そして落ち着きのある色調のドレス」の為に暗い色味の重厚なドレスが主流だったバロック時代後期に比べ、太陽王死後のロココ時代ではサテンやタフタの織り成す美しい質感や、パステルカラーの柔らかく明るい色調が望まれるようになり、ひたすら女性が女性らしく、優雅で華麗な時代が訪れます。
丁度この移行期を最も顕著に表している絵画が一つ。
雅の画家として名高い、ロココ様式を代表する画家アントワーヌ・ヴァトーが描いた「ジェルサンの看板」です。
No.1 アントワーヌ・ヴァトー 「ジェルサンの看板」 - 1720年
ヴァトーの友人である美術商ジェルサンの為に何と8日間で描き上げたというこの絵画は美しいシルクのドレスを纏った女性たちの中、亡き太陽王の肖像画を隅の方で木箱に片付けている人々の姿を見ることが出来ます。
新たな時代の幕開け、これが最もこの絵画において重要な意味合いなのですが、描かれた女性たちの上品なパステルピンクやストライプの衣装にも注目です。
1690年代から続いていたバッスルスタイル(ヒップラインを強調させたスタイル)は太陽王の亡くなった1715年を境に衰退し、1720年頃、16世紀中頃から存在したフープ(スカートを大きく膨らませるために籐もしくは鯨のヒゲなどの骨組みが使われたアンダーウェア、ファージンゲイルやパニエ、クリノリン等の総称)が再び見直され、釣鐘型のドレスや、正面から見ると扇の様に裾を広げたシルエットのドレスまで18世紀には様々な衣装が誕生します。
「ジェルサンの看板」に描かれるのは、後ろの襟ぐりからゆったりと裾まで垂れたプリーツが際立つ美しい衣装で、肩から裾までゆるやかに流れる後姿がうなじを際立たせ、女性の姿をこの上ない程優雅に見せます。この衣装は前開きのガウンとジュープ(スカート)とに分かれており、上半身の前開きにはストマッカー(数本のボーンが入った逆三角形の胸当て、ピエスデストマとも言われる)がコルセットを隠すために、前開きの両端から飛び出た裏地に縫い付けられていました。
通称「ローブ・ア・ラ・フランセーズ」と言われるこの衣装は肩から裾まで切り替えなく垂れた後姿を「フランス型ローブ」と呼んだ事からこの名称で親しまれ、また背中のプリーツを端縫いで押さえるか、もしくは後ろ身頃で縫いつけるかして、背中のラインをぴったりと体に沿わせるようにしたものを「イギリス型ローブ」と呼んだ事から「ローブ・ア・ラングレース」と呼ばれるガウンも存在します。
ローブ・ア・ラ・フランセーズはヴァトーの絵画や素描の中に多数描かれている事から、後身のプリーツを「ヴァトープリーツ」という別名で一般に知られる程になりましたが、他のロココ時代の画家、特筆すればジャン=フランソワ・ド・トロワによる作品「愛の宣言」の中にも、大変美しいローブ・ア・ラ・フランセーズが描写されています。
No.2 ジャン=フランソワ・ド・トロワ 「愛の宣言」 - 1731年
ローブ・ア・ラ・フランセーズの特徴を挙げるとすれば...
◇裾を引いている。
◇袖の後方に幾重にも畳んだひだがある。(すべてのフランセーズにあるわけではない)
◇ガウンとジュープには左右対称にポケット用のスリットが開けられている。これはアンダースカート(下着)に縫い付けられた一対の大きなポケット(このポケットには大抵美しい刺繍が施されていた)に手を差し込み、物を出し入れ出来るようにする為である。(これはフランセーズに限らず、ローブ・ア・ラングレースやポロネーズなどといった、ガウンとスカートとに分かれたドレスによく見られる。)
◇初期のカフスは寸法の大きな袖を折り返したようなデザイン。袖口から見える簡素なラッフルは衣装の下に着たシュミーズ、もしくはガウンの袖口自体に縫い付けられていた。
◇スカートの縁からロビングス(ガウンの正面の縁飾り)まで、レース飾りや花、リボンなどの装飾が施された。
◇ボタン止めのストマッカーも存在する。
◇ストマッカーを使わないフランセーズも存在する。(和服風に前を交差させて重ねるものや、前中央でかぎホックその他で止めるものもあった。)
1770年代まで見られたローブ・ア・ラ・フランセーズは、ルイ15世の寵姫ポンパドゥール侯爵夫人の1750年代の肖像画からも分かるように、フランスのファーストレディとして一世を風靡していた彼女の影響もあってロココ時代を代表する衣装となりましたが、ローブ・ア・ラ・フランセーズに限らずその他様々なドレスが存在していました。
1730年頃、フランス・バレエ史に必ず登場する名バレエダンサー、マリー・カマルゴの舞踊衣装の影響から、大型のフープが用いられた為に、かさの大きい釣鐘型もしくは楕円形のスカートが特徴的となった宮廷衣装が人気を博します。このドレスはボディスとスカートとに分かれており、ボディスには背中に開きがあった為、開きの無い前面にはレースや花、宝石といった装飾品が煌びやかに飾られました。
No.3 ジャン=マルク・ナティエ 「アデライード王女の肖像」 - 1750年
着付けの仕上げにレースのバンドを飾った大きく弧を描いた襟ぐりが特徴。
このドレスはボディスとスカートの境目にトレーンを縫い付ける場合もあった。
(その他のものとして襟ぐりがスクエアカットになっているものや、パフスリーブまで共布のものも存在する。)
ボディスはコルセットで締め付けたウエストに沿うようにされ、ゆったりとしたイメージは一切無く、息が詰まるようにさえ感じられるほど窮屈そうです。袖は肩からほんの少しの部分までドレスの生地と共布で作られ、そこから下はレース等であしらわれた肘丈の大きなパフスリーブになっています。
窮屈そうなボディスとパフスリーブの袖といった上半身の組み合わせは18世紀以前から既に存在していましたが、17世紀から衰退していたフープの再登場によって、大きなシルエットのスカートに金糸銀糸の刺繍やレース飾りが施された煌びやかなスタイルは王侯貴族の心を捉え、結婚式などの公式の場において欠かせないドレスとなっていました。
ジャン=マルク・ナティエの描くルイ15世の娘たち、アデライード王女やヴィクトワール王女といった姫君たちの肖像画には、大抵このスタイルのドレスが描かれています。
No.4 No.5 No.6 左~右 ジャン=マルク・ナティエ 「ソフィ王女の肖像」「ヴィクトワール王女の肖像」「ルイーズ・マリー王女の肖像」 - 全て1740年代
1740年頃からはスカートのシルエットが極端になり、楕円形というよりは殆ど長方形に近い様な形へと大きくなったものも見られます。貴婦人達は建物の出入り口を通る際、横幅が広がりすぎたスカートのせいで体を横向きにしていたと言われる程で、この様な負担を避ける為に蝶番の付いたパニエも開発されており、このパニエはドアの出入りや馬車を乗り降りする際、横の張り出しを折りたたむ事が出来ました。
丁度この時期からイギリスにて流行したマンチュアと呼ばれるドレスもご紹介するべきでしょう。ガウンとスカートとに分かれたこのドレスはガウンの後方のみに腰から二つのボックスプリーツ状のトレーンを引いており、これは前方から見た長方形のスカートのシルエットを生かすためと思われます。
この頃の髪型は落ち着いていて(とは言ってもだいぶ手の込んだ結い上げ方をしていますが)、額の生え際から上にかけて梳かしつけた髪型や、カールさせた長い髪を肩越しに垂らす髪型が存在しました。前者は今日「ポンパドゥール」の名称で知られている髪形に似ていますが、現在のポンパドゥールは膨らみが大きいのに対し、当時のポンパドゥールは比較的小さく纏められています。
頭飾りも可愛らしい物ばかりです。フランスでは頭上にちょこんと飾られたレースのボンネットや花飾りを飾り、イギリスではフランスのボンネットよりも大きく頭を包み込むかのようなデザインの物もありました。特にジャン・マルク・ナティエの作品「アデライード王女の肖像」"No.7"の中で王女のボンネット飾り(黒いレースが肩上や背中に垂れたボンネット)の美しさは大変素晴らしい物です。あごの下をリボンで結ぶクラウンの低いハットもこの頃の流行の一つで、室内用のレースキャップの上にこのハットを被ったと言われています。フランソワ・ブーシェ作「ベルジェール夫人の肖像」"No.8"の中で夫人が手に持つストローハットこそ、まさしくご説明したものです。
No. 7 ジャン=マルク・ナティエ 「アデライード王女の肖像」 - 1740年代
黒いレースを肩上に垂らすスタイルのボンネットは、この当時のフランス王族の肖像画によく見られる。
No.8 フランソワ・ブーシェ 「ベルジェール夫人の肖像」 - 1746年
このドレスもボディスとスカートとに分かれたスタイルのもの。
No.9 ジャン=マルク・ナティエ 「マリア・イザベラ王女の肖像」 - 1740年代
大変贅沢な総レースのエプロン。
No.10 ジャン=マルク・ナティエ 「アデライード王女の肖像」 - 1740年代
この頃の衣装にはレースや毛皮などで作られた細長い飾りを肩越しに垂らすのがよく見られる。
(「No.7」の肖像画の様にボディスに沿うように縫い付けられている場合もあった。)
興味深いことにエプロンも当時の王侯貴族に愛された服飾品の一つでした。庶民が付けるような実用的なエプロンではなく、一面総レースの大変豪華なエプロンが存在しました。ジャン・マルク・ナティエが描く幼きイザベラ王女の肖像画"No.9"には、目を見張るような素晴らしいエプロンを身に着けた王女の姿が御覧いただけます。
1750年代に入ると名高き寵姫ポンパドゥール侯爵夫人の時代が訪れます。彼女は平民出身の身でありながら、才気と美貌でルイ15世の寵姫の座を射止め、政治活動や文化の発展にも大きく携わり、セーブル磁器の誕生も彼女の支援によるものとされていますが、その絶大たる影響力はファッションの世界にも及んで行きました。
ブーシェやラ・トゥールなど、当時の肖像画家の手によって後世に残る夫人の姿はどれも美しいローブ・ア・ラ・フランセーズを纏っており、大きな楕円型スカートが特徴的な宮廷衣装を纏った貴族達と比べると、両者共コルセットとパニエを付けているにも関わらず、その佇まいはひたすらゆったりと落ち着きがあるように感じられます。
夫人のローブ・ア・ラ・フランセーズは「ジェルサンの看板」や「愛の宣言」などの絵画で見られるものと多少の変化が見られます。
No.11 フランソワ・ブーシェ 「ポンパドゥール侯爵夫人の肖像」 - 1750年代
初期のローブ・ア・ラ・フランセーズのカフスは比較的簡素なラッフルを縫い付けていただけでしたが、夫人のものは「アンガジャント」と呼ばれる何重にも重ねられた大変豪華なレース飾りです。この部分には最高級のレースがたっぷりと使われましたが、そこまでの贅沢をするほど財力が無い女性は刺繍したモスリンなどを代用していました。カフスのデザインも初期のものは寸法の大きな袖を折り返したようなデザインでしたが、下の画像"No.12""No.13"を御覧下さい。ガウンと共布で作られたラッフルが段階的に施されています。肘の内側には可愛らしいリボン飾りも見られ、この上ないほど愛らしい印象を与えます。
ストマッカーにあしらわれたリボン飾りも侯爵夫人のお気に入りの一つでした。「エシェル」と呼ばれるこの飾りは「梯子」の意味からも分かるように、大きなリボンから小さなリボンへと段階的に飾られています。スカートの縁からロビングス(ガウンの正面の縁飾り)まで、レース飾りや花、リボンなどの装飾が施され、ひたすら女性が可愛らしく見える要素がたっぷりと詰め込まれていました。
No.12 モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール
「ポンパドゥール侯爵夫人の肖像」 - 1752年~1755年頃
No.13 フランソワ・ブーシェ 「ポンパドゥール侯爵夫人の肖像」 - 1759年
当時の装飾品として最も重宝されたのは「花」で、16世紀は宝石、17世紀はレース、18世紀は花とレースの時代と言われるほどですが、侯爵夫人の纏う衣装も全て、花飾りやレース飾りが中心を占めており、煌びやかな宝飾品はあまり見当たりません。
胸元を飾る生花のコサージュを枯らさない為に水の入った小さな容器がコルセットの下に隠されていたと聞きますが、ちょっとした弾みで水が漏れやしないのかといらぬ心配をしてしまいます。
首元を彩るフリルも当時の流行の一つ。ダイアモンドジュエリーの代わりに現れたこの首飾りは、ポンパドゥール侯爵夫人の肖像画に限らずアデライード王女やベルジェール夫人の肖像画にも描かれています。
しかし真珠は常に人気があり、侯爵夫人の肖像画に描かれているイヤリング、ブレスレット、髪飾り等は全て真珠によるものです。
侯爵夫人の影響からローブ・ア・ラ・フランセーズは宮廷衣装の一つとして、楕円型のシルエットが特徴的なドレスと人気を二分するほどまでになっていました。
1770年代に入ると誰もが知る王妃マリー・アントワネットの時代が訪れます。型破りな彼女は1774年、夫であるルイ16世が王位に就いた途端に、大きなパニエが入ったスカートをまた一段と大きく、髪型も一段と膨らませて、頭飾りや扇といった小物まで全てが大胆なものへと変化していきます。
No.14 ジャン・バティスト・アンドレ・ゴーチェ・ダゴディ 「マリー・アントワネットの肖像」 - 1775年
ボディスとスカートとに分かれた従来の宮廷衣装に身を包む王妃マリー・アントワネット。
この時代に大流行したポロネーズ・スタイルと呼ばれるドレスは、オーバースカートをたくし上げて、三つの大きなドレープを作り上げたスタイルが特徴的で、リングが縫い付けられたスカートの生地の裏に、紐を通し引き結ぶことによってドレープが作られ、その他タッセル付きのコードなどでスカートの生地に様々なドレープを作り出すこともありました。
ポロネーズ・スタイルは、田舎暮らしに憧れを抱いていた王妃の計画によってプチ・トリアノン宮の敷地内に農村が作られた事が関係しており、乳絞り娘が仕事の際にスカートの裾をたくし上げた姿とポロネーズ・スタイルとが似ていることから、このドレスは彼女の望んだ生活様式を踏まえた上でのものと伝えられています。
No.15 No.16 No.17 様々なローブ・ア・ラ・ポロネーズ 「ギャルリー・デ・モード」誌より - 全て1778年頃
このドレスもガウンとスカートとに分かれたスタイルが特徴的で、ガウンのスカート部分にたっぷりと引かれたドレープがヒップラインを強調させます。
ヒップラインを引き立てる為に背中のプリーツがローブ・ア・ラングレースの形になったものや、ボディス部分とスカート部分とが別裁ちで縫われているもの、そしてローブ・ア・ラ・フランセーズの形になったポロネーズなども存在し、前開きの部分にはストマッカーを使う場合や、前中央でかぎホックその他で留める場合など様々。
上記の画像では袖のデザインも様々なものが見られます。
さて下の画像は1770年代のローブ・ア・ラ・フランセーズの一つです。
パニエ入りの巨大なスカートはまるでクロスを掛けたテーブルの様にさえ見えます。袖には大きなアンガジャント、襟ぐりには17世紀初期の貴婦人達を思わせる様な上向きのフリル飾り、スカートには花やレースそしてプラスティックスもしくはプラスティック・デコレーションと呼ばれるソーセージ状の飾り(この飾りは"No.14""No.16"にも見られる)が施されていますが、全てが仰々しい中、何よりも驚くのはその奇抜な髪型です。
No.18 マリー・アントワネット時代のローブ・ア・ラ・フランセーズ 「ギャルリー・デ・モード」誌より - 1778年頃
1760年代から徐々に大きくなり始めた髪型は、1770年代その膨張が最頂点にまで達していました。アントワネットは専門の髪結い師レオナールによって、常に最新のヘアスタイルを誇示していましたが美しいのは見掛けだけ。
入浴を知らない当時の人々の衛生観念の劣悪さは聞いただけでゾッとするほどです。
大きな羽飾り等であしらわれた髪型の他に、馬車や家などのミニチュアが乗せられたものから、アメリカ独立戦争の際には海戦勝利を祝って軍艦が乗せられたと言われるものまで、豪華絢爛な装飾を支える為にしっかりと髪粉(小麦粉)で固めた髪の中は虱の温床と化していました。あまりにも虱や蚤がひどい時は、髪粉で固める際に作っておいた割れ目を開いて、そこから虫退治が行われたと言われています。
その上体臭もひどいものです。入浴は現代人にとって当たり前の習慣ですが、16世紀以降の西洋では風呂は疫病の発生源としてみなされており、民衆も王侯貴族も含め、人々は水に浸かれば雑菌が皮膚に浸透し命に関わると信じていました。アントワネットの時代になると、入浴が少しばかり見直されていたらしく、専門の風呂係が付き添いの中、アントワネットは薄着を纏って入浴していたと言われます。
しかしヴィンディッシュグレッツ公爵夫人なる人物がアントワネットの近況を知らせるべくマリア・テレジア女帝へ送った報告によると、皇女はひどく不潔で歯も磨いていないとの事。耐え難い体臭をごまかすための香水や、口元を隠したり空気を循環させるための扇は当時の必需品となっていました。
一度髪のセットをすると数週間はそのままです。貴婦人達は一体その大きな頭のままで眠るとき等どのようにしていたのかが不思議でなりませんが(セダンチェアに乗る際は、ひざをついて屈んでいたとか)普段はカラッシュと呼ばれる大きなフードを被り、雨風から自慢のヘアスタイルを守っていました。
No.19 ドレスの上に埃よけの上着とテレーズを被った女性 「ギャルリー・デ・モード」誌より - 1779年頃
この女性が被っているのはカラッシュではなくテレーズと呼ばれる埃よけ用の被り物で、
カラッシュは「幌」の意味の通り、中に骨組みが仕組まれているがテレーズは薄い布だけで作られたフードを指す。
1780年代にも依然としてパニエによる大きなシルエットのドレスは存在していました。
しかしスカートは徐々にしぼみ、再びバッスル・スタイルのドレスがもてはやされる様になります。
カラコと呼ばれるジャケットとスカートとに分かれた衣装は、カラコのペプラムがバッスルスカートのヒップラインを際立たせており、この頃の衣装の袖は比較的簡素で腕に沿うように作られています。ネッカチーフも当時の流行の一つで、貴婦人達はひだを寄せて膨らましたネッカチーフによって胸元を強調していました。
バッスル・スタイルのローブ・ア・ラングレースも存在しており、大きなフィシューを襟ぐりの中にたくし込んだり、胸の前で交差させて腰の後ろで結んだりして胸元を彩っていました。
1780年代の帽子は羽飾りがたっぷりとついた大型のものがもてはやされ、当時のイギリスの肖像画家として名高いトマス・ゲインズバラの描いた女性達がよくこの帽子を被っていることから「ゲインズバラ・ハット」とも呼ばれます。
大きな帽子を安定させる為に、程よく結われた髪型はひたすら女性の姿を堂々と見せています。
No.20 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
「薔薇と一緒のマリー・アントワネット」 - 1783年
バッスル・スタイルのドレスに身を包むマリー・アントワネット。
この頃のドレスはガウン、スカート共に際立った装飾が見られない。
この肖像画にて王妃はフィシューを着けていないが、襟ぐりのフリル飾りによって
彼女の象牙の様に白い胸が強調されている。
No.22 トマス・ゲインズバラ 「朝の散歩」 - 1785年
バッスル・スタイルのドレスにゲインズバラハットを被った女性。
No.21 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
「マリー・アントワネットの肖像」 - 1788年
ベルベットの質感が美しいバッスル・スタイルのドレスを纏うアントワネット。
彼女の頭上を飾る、布をふんわりと膨らませたかの様な帽子は
ゲインズバラハットと並ぶ当時の流行の一つだった。
襟ぐりにフィシューをたくし込み、ガウンの前開きから
フィシューの一部を覗かせるスタイルが当時の肖像画によく見られる。
No.23 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
「Portrait de la baronne de Crussol」 - 1785年
カラコを着た女性像。
ペプラムの縁取りに施された毛皮によって、ヒップラインをより一層強調させている。
1780年代のドレスには今までのスタイルとは全くかけ離れた物も存在していました。当時のイギリスからもたらされたモスリン製のシュミーズ・ドレスです。
古代ギリシアを理想郷とする古典様式が盛んだったイギリスでは、人類の文化は古代ギリシアから下降してきたと考えられ、絵画や建築などの枠に留まらずファッションの世界にまで、ギリシア神話に登場する女神たちの様な服装を最新モードとして取り入れました。
当時のイギリス肖像画家、ジョシュア・レノルズやトマス・ローレンスの作品にはシュミーズ・ドレスを纏ったイギリスの貴婦人達の姿が描かれていますが、フランスでも既にこの最新ファッションを身に纏うマリー・アントワネットやポリニャック伯爵夫人といった女性たちの肖像画が見られます。
No.24 エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
「マリー・アントワネットの肖像」 - 1783年
No.25 トマス・ゲインズバラ 「デヴォンシャー公爵夫人の肖像」 - 1783年
フランス王妃マリー・アントワネットと、イギリス社交界の花形として知られるデヴォンシャー公爵夫人ことジョージアナ。
両者共シュミーズドレスに身を包んでいるが、ジョージアナのドレスは装飾が一切ない簡素な仕立てであるのに対し、
アントワネットのドレスは襟ぐりを飾るフリルに大きなマメルークスリーブ風の袖と、フランスらしい華やかな装飾が見られる。
シュミーズ・ドレスが流行した理由は当時インド産の布地がもてはやされた事も関係しています。
東方貿易が盛んだった西洋では中国、ペルシャ、そしてインドなどといった異国の文化を取り入れ始め、数々の陶磁器などが輸入される中、インド産の木綿や綿などの織物も輸入され、貴婦人達は見知らぬ国からもたらされたこの布地を贅沢品として重宝しました。現代の私達から考えれば綿の生地に高値をつけるなど考えられないことですが、インド産モスリンで作られたシュミーズ・ドレスにインド産ショールなどといったこれらの物は、真っ先に女性たちの心を捉えたのです。
フランス革命(1789~1799年)が本格化し、1793年にはマリー・アントワネットが斬首台の階段を上りました。後に革命の流れは王族への反乱から革命家同士の権力争いへと発展。時代は混沌の世界へと突入して行きます。重厚でひたすら華やかな宮廷衣装は上流階級の象徴として姿を消し、古代ギリシアの民主制を復活させようとする思想の中、シュミーズ・ドレスの存在がギリシア建築や哲学と同様、理想的なものとして受け入れられます。
まるでギリシア神話の女神たちの様に薄着を纏った女性たちのスタイルは19世紀初期まで続くこととなります。
参考文献
ブランシュ・ペイン著「ファッションの歴史」
ナンシー・ブラッドフィールド著「貴婦人のドレスデザイン」
京都服飾文化研究財団著「華麗な革命」