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History of Courtesans

この記事は数冊の書物を参考に書いた「クルチザンヌの歴史」です。

なお掲載している画像は全てパブリックドメインのものです。著作権の関係でご紹介できない画像に関してはご了承下さい。

「今日は全てでも、明日は無。」

 


フランソワーズ・シャンデルナゴール著「無冠の王妃」、この小説はフランス国王ルイ14世の寵姫、そして後に内縁の妻となったマントノン侯爵夫人ことフランソワーズ・ドービニエの回想記といった形で、彼女自身の生涯が大変生き生きとした表現で描かれたものです。先妻を殺した犯罪者の父、そしてこの父に惹かれた母との間に監獄の中で生まれ、西インド諸島(植民地)へ向かうための壮絶たる航海の経験に、ラ・ロシェルにて物乞いをしていた頃の記憶、そして兄の死など、この上ないほど辛い子供時代を過ごした彼女は、後に時と共に培われてきた彼女自身の才知で「太陽王」を魅了し、彼の晩年の30年間、まさに「無冠の王妃」として王の生涯の伴侶となりますが、この数奇なストーリーは何度読んでも心惹かれます。


上記の「今日は全てでも、明日は無。」は、まだマントノン侯爵夫人が国王の庶子の教育係だった頃、彼女の人生において長い付き合いとなる先代の寵姫モンテスパン侯爵夫人が放った言葉で、寵姫ルイーズ・ド・ラヴァリエールの失寵、ドゥーディクール夫人の破滅、そしてモンテスパン夫人自身の未来への暗示が込められた言葉ですが、この言葉は今回ご紹介するクルチザンヌ達(高級娼婦)の姿を思い出さずにはいられません。


ルイ14世死去から約130年近くの時が経ったフランスにて、第二帝政という最も華やかな時代に生きた彼女たちの人生は、言葉では表せない程絢爛で優雅なものでした。しかしクルチザンヌの晩年の運命を考えると、その後姿は何処と無く憂いに満ちている様に感じられるのです。ナポレオン3世即位後、世界に誇る帝都として美しく変貌を遂げたパリ。芸術や文化が花開く中、束の間の花として散ったクルチザンヌ達の全貌をご紹介出来たらと思います。

 

 

 

○高級娼婦の起源


1873年、普仏戦争による第二帝政崩壊後のパリでの事。普仏戦争の間、連戦連敗を繰り返したあげく、メッツの要塞に包囲された際には防衛の為に全力を尽くすことさえしないまま、いとも簡単に降伏したバゼーヌ元帥に対する裁判が戦後処理の一環として開かれた際、傍聴席に座っていた一人の美しい女性に対し、ある貴婦人が言いがかりをつけ始めました。


「この席は、わたくし、裁判長のド・マール公爵閣下から頂いたものよ。何なのよ、あなたの態度は!」


どうやら座席をめぐって、この貴婦人は自身の権威のままに女性を追い出そうとしている様子。しかし女性の方はと言うと...

 

「あら、わたしも公爵さまから招待されたの。」

との一点張り。遂に貴婦人はかんかんに怒って...


「あなた、生意気だわ。わたくし、今夜、裁判長閣下と食事をすることになっていますの。あなたの無礼な態度は、閣下に言いつけておきますからね」


貴婦人は「閣下と食事をする...」の一言で自身の階級を誇示しつつ、この女性に権勢を振りかざします。すると女性は余裕の面持ちでこう答えたのです。


「あら、あなた、閣下と夕食の約束をされているの? わたしは閣下と夜食を共にして、そのあとで、一緒に寝る約束をしていますのよ」(セリフのみに関しては山田勝著「ドゥミモンデーヌ」より抜粋。)


とうとうこの女性は貴婦人を二の句が告げないようにやり込めてしまいます。ド・マール公爵の愛人でありながらナポレオン公やクレマンソー首相らとも関係を持ち、マキシマム嬢(最高に高くつく女)と仇名されたこの女性、その名もレオニード・ルブランはこのパリの中で最も名高いクルチザンヌの一人だったのです。

レオニード・ルブラン

上流階級の人々を相手にここまでの発言が出来るとなると、クルチザンヌという立場がいかなるものなのか。数多の男性を跪かせ、王侯貴族以上のライフスタイルを送り、政治にまで権威を振るったクルチザンヌという女達。


その歴史は古代ギリシャの時代まで溯ります。


古代ギリシャの世界には三つのタイプの女性が存在しました。一つは正妻、もう一つが男性の身の回りの世話をする側女。そしてもう一つが娼婦です。そしてこの娼婦にも二つのタイプが存在します。どのような物事にも「下級」と「上級」があるように下級娼婦と高級娼婦に分けられていたのです。下級娼婦は娼家にて、いわば男性の性の捌け口の為に商品として扱われており、そのほとんどが海賊から連れ去られてきた女性達でした。しかし高級娼婦は美しく、踊りや音楽に長け、そして機知に富み、聡明でなけらばなりません。


なぜ娼婦という立場でありながら、高級娼婦はこの様な器量が求められるのでしょう。それはこの時代の男尊女卑の価値観が投影されている為です。


当時の弁論家であったデモステネスの言葉

「(アテネ人は)快楽のために情婦を持ち、身の回りの世話のために妾を持ち、忠実に家を守り正統な子孫を生むための妻を持つ」(マイケル・ケント公妃マリー・クリスチーヌ著「宮廷を彩った寵姫たち」より抜粋)


この言葉の通り、古代ギリシャでの正妻の立場は現在とは非常に異なっています。言わば正妻は「子を生み育てる道具」であり、側女も同等の扱いであった為、彼女たちは子を養うべく家から出る事を許されませんでした。外出することは一度もないわけですから勿論教養も正妻には求められません。ただ妻には血筋だけが重要視され、後は子供を生み続けることだけが彼女たちの人生だったのです。


そのような中、高級娼婦の存在が際立ちます。当時の中年男性の中では少年愛に耽る男性も多くいましたが、しかし少年は直に大きくなり同性愛の対象ではなくなってしまいます。しかし高級娼婦は少なくとも少年より美は長続きしますし、裕福な男性に釣り合うように、確かな教養を身に付けている彼女たちは、無教養で退屈な妻よりも遥かに重宝される存在となったのです。


男性たちは自身が連れて歩く高級娼婦がいかに素晴らしいかで見栄を競っていたと聞きます。これにより彼女たちは「連れ」の意味を持つ「ヘタイラ」という名称で親しまれていました。


当時アテネの最高の政治家とされるペリクレスの愛人であった高級娼婦アスパシアは、非常に才気に溢れた女性だったらしく、後に彼女は学芸サロンを開き、そこでは修辞学の講義までも行われていたと言われています。ソクラテスも弟子を連れてこのサロンを出入りしていたそうですから、当時の高級娼婦の存在がいかに大きなものかお分かりになるでしょう。


簡潔にまとめれば妻は子を生む為だけの存在で、高級娼婦は男性と共に文化的な暮らしをした女性であり、まさに性愛は生きる事への喜びと考えられた古代ギリシャの時代らしい風潮であるように思えます。

 

 

 

○コルティジャーナとクルチザンヌ


クルチザンヌの言葉自体はフランス語ですが、この言葉の起源は15世紀ルネサンス時代のローマにて、コルティジャーナ(Cortigiana「宮廷(Corte)に仕える女性」を意味するイタリア語。)と呼ばれる女性達が存在したことに由来します。


当時のローマ法皇庁には人文主義者を中心とした文学や哲学を愛する人々が大勢おり、彼らによって一つの宮廷が作り上げられていました。しかし本来の宮廷と違う所は女性がいないこと。美しい乙女たちのいない宮廷など、花のない庭と変わりません。しかし参加する聖職者に配偶者はいませんから妻や娘を連れてくることは出来ず、上流階級の婦人となると独身男性ばかりの集団の中ですから、婦人の貞操に影響が出ては困ります。


そこで必要とされたのは古代ギリシャのヘタイラと同じく、美人で聡明な女性達。ヘタイラと同様、血筋は関係ありませんから、庶民の娘たちの中から美貌の娘が選び出され、彼女たちは上流階級に釣り合うように礼儀作法や教育を施されます。こうして生まれたコルティジャーナたちは若き聖職者たちを虜にする訳ですが、聖職に就く男性は結婚をすることはありませんから、自然とコルティジャーナと聖職者との愛人関係が成り立ってきます。あくまで法皇庁に花を添える役割として軽蔑されることもなく、その上聖職者の大半は貴族階級出身の裕福な男性ばかりですから貞操を犠牲にさえすれば多額の金銭を要求できます。援助交際のシステムが自然の流れで生まれ、コルティジャーナたちは大金を手に、何不自由なく暮らす事が出来たのです。

 


~余談~


娼婦の歴史において、性の捌け口としての下級娼婦はいかなる時代にも常に存在しましたが、高級娼婦と呼ばれる女性達はこれまでご紹介した歴史の中で古代ギリシャとルネサンス時代にしか存在しておらず、この二つの時代には約1500年もの差が生じています。

これはキリスト教の布教と共に、イヴの罪や聖母マリアの処女懐胎に表徴されるような、性に関する一切の出来事がタブー視されるようになった為で、特に中世(5世紀のローマ帝国分裂から14世紀~16世紀までのルネサンス時代登場までの時代)では性的な物事を抑圧する動きが見られたために、下級娼婦はあくまで独身男性の性欲を発散させ、そして婦女子の貞操を守るための存在として黙認されていましたが、高級娼婦のような表舞台で活躍する女性は姿を現すことが出来ませんでした。

 

しかし12世紀後期の頃、マリー・ド・シャンパーニュなどといった当時の名高い貴婦人たちの影響で数々の色恋沙汰に関して検討する「恋愛法廷」なるものが開かれた際、中世での上流階級同士の結婚は政略結婚が常であった為、シャンパーニュ夫人は「夫婦間に真の愛は存在しない。」と大胆な発言をします。これにより例え不倫愛であったとしても上流社会での情熱恋愛が発展する形となり、その他「死の舞踏」として表現された黒死病の大流行による神への不信などといった出来事の後、ルネサンス時代の到来により古代ギリシャの文化が復興されたと同時に、ルネサンスでのヘタイラ(コルティジャーナ)が登場したと思えば自然な成り行きだと思えるのではないでしょうか。

 

 

 

○「公式寵姫」と呼ばれた女達


第二帝政期を全盛としたクルチザンヌたちをご紹介する前に、フランス革命以前の旧体制時代にて権力のままに活躍した公式寵姫の存在をまず辿らなければなりません。


公式寵姫とは国王の公認の愛妾であることを証明する「メトレス・アン・ティトゥル」の称号が与えられた女性を指します。王族同士の結婚が国の繁栄や平和において重要な外交手段である以上、愛の無い政略結婚しか望めない国王の憂いを晴らす為に存在するこの女性達は、国王の情熱に応える相手としては勿論、彼女たちの中には政治にも介入する者も存在しました。


最初に公式寵姫の称号が与えられたのは15世紀フランスの国王シャルル7世の愛妾アニェス・ソレル。シャルル7世は国中の女性と関係したと言われるほど経験豊富だったそうですが、王妃の義理の妹の侍女として仕えていたこのブロンドの美女に国王はたちまちのぼせ上がってしまいます。初めて出会ったこの時国王は40歳、アニェスは22歳です。後に国王は彼女にマルヌ川の側にある城を与え、その城の名から「メトレス・ド・ボーテ」(麗しの君)とアニェスは呼ばれるようになります。


「彼女に対する燃えるような欲望のあまり王は一瞬たりともそばから離せないほどだった。食事のときもベッドでも会議の席にも彼女は常に王とともにあった。」
(マイケル・ケント公妃マリー・クリスチーヌ著「宮廷を彩った寵姫たち」より抜粋)

アニェス・ソレル

アニェスはシャルル国王からダイアモンドの宝飾品も贈呈されており、それまでダイアモンドは男性の装飾品でしたが、アニェスは女性として初めてダイアモンドを身に着ける事となります。しかし現在のカットの基本であるブリリアン・カットなど、まだ存在していない時代ですので、今日の眩い輝きを放つダイアモンド・ジュエリーほど美しくはなかったでしょう。


(ダイアモンドの輝きが初めて認められたのは16世紀初頭にポイント・カットもしくはテーブル・カットが発明された頃。その上15世紀当時はサファイアやエメラルドといった色石の方が価値が上回っていたそうですから、アニェスのダイアモンド・ジュエリーは当時としては比較的安価なものだったのでしょうか。)

 


今回はもう一人、著名な公式寵姫をご紹介します。ディアーヌ・ド・ポワティエ、フランス国王アンリ2世の愛妾です。フランス・ルネサンスの宮廷で眩いばかりの魅力を放ったこの女性は、20歳年下のアンリ国王から真の寵愛を受けたとして、歴史に名が刻まれています。
 

月の女神に扮したディアーヌ・ド・ポワティエ

アニェス・ソレルが28歳の若さで世を去ってから約半世紀後の事、彼女はフランス南東部の名門貴族の家柄に生まれます。誕生の際、空には月が照っていた為、神話に登場する月の女神ディアナ(ダイアナ)にちなんでディアーヌと名付けられました。ディアーヌが15歳になった頃、当時彼女が教育を受けていたフランス王女アンヌ・ド・ボージュの勧めにより、ノルマンディー大総督ルイ・ド・ブレゼ伯爵と結婚します。

この39歳年上の花婿はお世辞にも美男とは言い難い容姿の持ち主。この花嫁花婿の関係は年齢的にあまりにも不釣り合いなものでしたが、しかしこのような花婿にもディアーヌにとって良いメリットがありました。


ブレゼ伯爵はシャルル7世とアニェス・ソレルとの孫にあたり、当時即位したばかりの新王フランソワ1世からは確かな信頼を置かれ、その上王の側近でもあったのです。これによりディアーヌ自身も王室に仕えるべく、フランソワ1世の妃クロードの女官としてフランス宮廷にデビューします。当時のフランス宮廷は芸術を愛するフランソワ1世がイタリア進軍の際、イタリア・ルネサンスの文化に影響され、画家レオナルド・ダ・ヴィンチを自国に招いた為に、雅なフランス・ルネサンスの華が咲き誇っていました。そして彼はヴェルディ作曲のオペラ「リゴレット」の恋多きマントヴァ公爵のモデルになった通り、芸術も含め美しい乙女たちも愛して止みません。彼の周りには才色兼備の美女を集めた「ラ・プティット・バーンド」(小さな軍団)と呼ばれる女官団も存在したと言われています。


しかしこの様な宮廷に暗雲がたち込めます。クロード王妃が24歳の若さで亡くなり、そしてイタリア支配をめぐって、フランスとスペインとの戦争であるパヴィアの戦いの際にフランソワ王は敗北し、宿敵であるスペイン王カルロス1世の捕虜にされ、マドリッド郊外にある砦アルカザールに幽閉される運命となります。ディアーヌは王の母であるルイーズ・ド・サヴォワの命により、今は亡き王妃と囚われの身である国王との間に残された子供たちの面倒を見る事になったのです。当時まだ10歳にも満たない王太子フランソワは父王譲りの元気で活発な少年でしたが、その弟であるアンリ王子は王妃譲りの大人しく内気な子で、彼の唯一の慰めは世話係である優しいディアーヌの腕に抱かれる事でした。ディアーヌ自身このか弱い少年が立派な王子になった時、彼の愛を肉体的に受け止める事になるなど想像すら付かったことでしょう。


やがて1526年、ブルゴーニュやミラノといったフランスの領地をカルロス1世に譲渡する上、捕虜であるフランソワ王と引き換えに二人の王子(フランソワとアンリ)を無期限の人質としてマドリッドに送るという条件で、スペインとの間にマドリッド平和条約が結ばれます。フランスとスペインの国境にあるビダソワ川での事、まだ7歳のアンリ王子はディアーヌと別れのキスをして、兄と一緒にスペイン側へと引き渡されます。美しいディアーヌの姿を胸に留め、幼い王子は牢獄の門をくぐるのですが、一方父王フランソワ1世はフランスの土地に戻った途端、二人の王子の存在など忘れてしまったかのように平和条約を無効にしてしまうのです。


監禁されている王子たちの日々は平和条約の無効により、一層苛酷なものとなります。スペイン人の牢番だけが王子たちに付き添い、家庭教師がいない為に母国語をほとんど忘れてしまいました。このような中アンリは父王にどのような思いを抱いたのでしょう。日々度重なる絶望の為に、王子はより無口な子となってしまいます。


1529年、カルロス1世の姉でありポルトガルの王太后でもあったエレオノールとフランソワ1世の結婚を条件に、ルイーズ・ド・サヴォワそしてカルロス1世の叔母であるオーストリアのマルガレーテの計らいによって、スペインとカンブレ講和条約が結ばれます。フランスは莫大な補償金を支払わなければなりませんでしたが、フランソワ王太子とアンリ王子はこれで漸く、自国であるフランスへ帰ることが許されたのです。


王妃エレオノールと二人の王子。新しい王妃の女官として仕えるべく、ディアーヌは当時宮廷のあったボルドーで三人を出迎えました。パリのサン・ドニ寺院で新王妃の戴冠式が行われた1531年の頃、祝祭の最後の日には二人の王子による騎馬試合が行われたと言われています。王子たちは二人とも、父王が抱いていたスポーツに対する情熱をそのまま受け継いでいましたが、活発な王太子に対して、やはりアンリ王子は寡黙な子であることに変わりませんでした。しかしアンリ王子はスペインの作家モンタルヴォが書いた「ガリアのアマディス」なる騎士道の物語に魅了されており、物語の中で主人公アマディスが自身の愛をオリアーヌ姫に誓う場面から、自分自身の心を捧げてまでも守り抜く、美しき貴婦人の存在を彼は現実に求めていたのでした。アンリ王子が馬に乗って観客の前を通り過ぎる時、彼の眼差しはある一人の美女に向けられます。当時の宮廷にはフランソワ1世の愛妾アンヌ・デタンプが宮廷一の美女として君臨していましたが、王子の心はアンヌには向けられません。彼が敬礼を送ったのは、牢獄の中夢で追い求め続けたあの優しい世話係。王子は美女ディアーヌ・ド・ポワティエに忠誠心と真の愛を表したのです。この時アンリは11歳、ディアーヌは31歳でした。


騎馬試合の日から4ヵ月後、ディアーヌの夫であるブレゼ伯爵が72歳で亡くなります。あまりにも年上すぎるとは言え、夫である以上心から尊敬し愛していたディアーヌは、夫の死を悼む為にルーアンの寺院に記念碑を作るよう命じ、自身も喪に服します。しかし白と黒の喪服姿にブロンドの髪を梳き流した彼女の姿は非常に美しく、これはより一層アンリ王子の心を魅了してしまう要因にもなったことでしょう。アンリとディアーヌが肉体関係を持ったのは1538年、アンリが19歳、ディアーヌが39歳の頃です。初めて過ごした夜が明けた時、ディアーヌがアンリに贈ったとされる詩が残っており、その文章は非常に甘美なものです。

 


ある美しい朝 愛がやってきた


とてもやさしい花束を私に捧げるために


「さあ」手をさしだす「あなたの胸に飾って」と


そしてすぐにあらせいとうや黄水仙を投げかける


わたしのマンテラは花で満ち、胸はうっとりとなる


何故なら花は若く元気な若者だったから

 


(マイケル・ケント公妃マリー・クリスチーヌ著「宮廷を彩った寵姫たち」より抜粋)

 


ディアーヌがこの官能的な詩を送った時、アンリは既に既婚者でした。お相手はイタリアのメディチ家からの花嫁カトリーヌ・ド・メディシス。彼女は王家の出では無いにせよ大富豪メディチ家の出身である上に、ローマ教皇までも親戚に存在するという大令嬢でした。しかし多額の持参金やミラノ公国の譲渡、そして富豪との婚姻関係といったフランス側を満足させる政略結婚であったにも関わらず、彼女は「フィレンチェの薬売り」や「商人の娘」などといった誹謗中傷を浴びせられる事となります。王族の血筋では無くして、王太子妃の地位に属するなど(この時アンリの兄であったフランソワ王太子は既にこの世の人では無かった為、アンリが王太子の立場にあった。)これはフランスの王侯貴族の自尊心を傷つけた上に、アンリの愛妾ディアーヌの血筋の方が格段に優れていた為でもあるでしょう。そしてメディチ家特有の大きすぎる目を持ったカトリーヌはお世辞にも美人とは言い難く、ディアーヌに魅了されていたアンリは夫婦の義務を終えるやいなや、彼女を避けるようになります。


しかしディアーヌはこの孤独な王太子妃を丁重に扱い、夫婦間の子作りに積極的に協力します。これはディアーヌが愛妾という不安定な立場である故に、現在の立場を揺ぎ無いものへ変える為でもあったのです。アンリがディアーヌにしか情熱を向けない限り、王太子妃が跡継ぎを残すことはありません。もし王太子妃が不妊と認定された場合、この結婚は無効化され、新しい妃を迎える必要があります。では仮に新王太子妃が若く魅力的な女性でアンリが心変わりしたら...ディアーヌは深く考えます。

 

...カトリーヌはルネサンス文化に彩られるイタリア出身で確かな教養も身に付けている。しかし女性としての魅力には欠け、勿論私の様な美貌の持ち主でもない。しかし彼女は自身の身分を考慮してか、誰に対してでも謙虚に振舞う...

 

カトリーヌの特質を見て取ったディアーヌは自身に対するアンリの愛を永遠のものへと繋ぎ止める為に、王太子妃には早く跡継ぎを生んで貰い、後は従順なカトリーヌを都合良く扱えば良いと考えたのでした。ディアーヌはアンリに君主としての務めを果たして貰う為に、まずアンリと寝室を共にし、彼が興奮した所でカトリーヌの寝室へと送り込みます。そして務めを果たした後、アンリはディアーヌの胸へと戻り、そのまま朝まで過ごしたのです。そして1544年、夫婦は功を奏し男の子が生まれます。父王と同じフランソワと名付けられたこの子は、1556年までにカトリーヌが産んだ計10人の子供たちと同様、ディアーヌはまるで自身の子の様に扱います。教育もディアーヌによって行われ、これは次の出産に向けて体力を蓄えておくようにと、王太子妃への手厚い対応でもあったのです。


1547年、父王フランソワ1世が52歳でこの世を去り、新たにアンリが国王アンリ2世として即位します。ノートルダム寺院で行われた戴冠式にて、アンリ国王が纏う黒と銀の色彩で彩られたマントには、HとDの文字を組み合わせた紋章が。アンリ(Henri)のHとディアーヌ(Diane)のD、この紋章はディアーヌに対するアンリの真の愛、そして彼の人生にディアーヌの存在がいかに大きなものであるかを意味していたのです。ディアーヌは戴冠式の際、王太子妃の女官として出席していましたが、王太子妃カトリーヌの頭文字であるCは、紋章のどこにも見られませんでした。戴冠式の6日後、公式寵姫であることを公認する「メトレス・アン・ティトゥル」の称号をディアーヌは与えられています。幼少期を牢獄で過ごし、父王からは何の教育も施されなかった為に、帝王学に欠けていたアンリ2世は、政治に関してもディアーヌに助言を求めます。公文書のサインは必ず「アンリディアーヌ」と二人の名が記され、ディアーヌは顧問会議の一員としても、国王の良きパートナーとなったのです。


48歳のディアーヌはここに、女としての完全なる勝利を収めたのでした。

 


彼女の半生を振り返ると、公式寵姫という名の存在がいかなるものなのか、ご理解頂けたのではないかと思います。今回ご紹介した二人の寵姫、アニェスとディアーヌは国王の心を完全に虜にした女性達でしたが、二人の最後の運命はあまりにも華やかだった寵姫時代に比べ、大変呆気ないものの様に思えます。

アニェスは国王シャルル7世の寵愛により限りない贅が許され、シャルル7世妃マリー・ダンジューの目前でも王妃然と振る舞い、勿論政治にも介入しました。史上初めての公式寵姫として寵姫の役職を確固たるものにした女性でしたが、28歳という若すぎる死は大変痛々しいものです。彼女の死因は水銀中毒による毒殺とされており、国王は当時財務官であったジャック・クールに毒殺の疑いをかけ、彼を禁固刑に処しますが、現在の推測ではシャルル7世の長男であるルイ王太子がアニェスを殺害したのではないかとされています。殺害要因は母マリー・ダンジューが夫の不貞に嘆き悲しむ姿を見ていた為でもありますが、何よりアニェスが愛妾という立場でありながら政治関係にまで権威を振りかざした事が最もでしょう。

晩年のシャルル国王は自分自身も毒を盛られるのではないかと恐れ続け、食事を一切取らなくなった為に餓死したと言われます。無実の財務官を処罰したのは、王太子が殺人犯として取り沙汰されるのを恐れたからではないでしょうか。


ディアーヌ・ド・ポワティエの晩年の日々は、波乱万丈の人生に引き換え、とても静かなものでした。彼女がアンリ王子の姿を初めて見た時、まだクロード王妃が生んだばかりの小さな赤ん坊であった彼は、19歳の女官ディアーヌの腕にそっと抱かれていました。巻き布で包まれた彼を王妃の腕へと渡した際、ディアーヌはこの赤子が後に「やさしい花束」になるとは思ってもいなかったでしょう。50歳を間近に寵姫として最高の地位を手に入れたディアーヌ。しかし彼女の栄達の道は崩れ始めます。それは恋人の死、そう国王アンリ2世の不慮の死がもたらしたのです。アンリの死はノストラダムスが次のように予言した3日後の事でした。

 


若き獅子は老人に打ち勝たん


戦の庭にて一騎打ちのすえ


黄金の檻の眼を抉りぬかん


傷はふたつ、さらに酷き死を死なん

 


(中野京子著「残酷な王と悲しみの王妃」より抜粋)

 


1559年6月30日、その日はとても蒸し暑い日でした。アンリ国王は自身の息子であるフランソワ王太子の結婚、そしてクロード王女とエリザベート王女の結婚を祝い、大変華やかな祝賀の後、王は3日間に渡る騎馬試合を興じる事を提案します。40歳になった今でもまだまだ現役であった王は、この熱烈的なスポーツの開催に非常に上機嫌でした。しかし王妃カトリーヌ・ド・メディシスはこの試合への不安を隠せません。なぜならノストラダムスの予言により、王に悲惨な運命が待ち構えていると信じていたからです。王妃がいくら試合を中止するようにと懇願しても、所詮相手を馬から落とすだけのゲームだから怪我をする事は無いと王は聞く耳すら持ちません。いつものように王はディアーヌへの愛を示す三日月の紋章が飾られた衣装を纏い、颯爽と馬に跨ります。貴賓席には60歳の寵姫ディアーヌ・ド・ポワティエは勿論の事、フランソワ王太子の花嫁であるスコットランド女王メアリ、そしてスペインのフェリペ2世と結ばれたばかりの王女エリザベートの姿が見えます。王妃カトリーヌは王への不安と蒸し暑い気候のせいで、丁度その時彼女が着ていた紫色のドレスと顔色が一緒でした。


アンリ国王は儀仗兵の隊長ロルジュ伯爵ことガブリエル・モンゴメリーに試合を挑みます。一試合目、王は伯爵に勝利しました。しかしもう一試合対決をしようと、まるで運命の女神のいたずらであるかのように王は提案したのです。伯爵は何か不吉な予兆を感じ取り、申し出を断ろうとしましたが、連勝続きに酔いしれている王は耳を貸しません。二試合目、お互いの馬が激突しあい、その衝撃が鳴り響きます。すると伯爵の槍が折れ、こともあろうに王の兜に突き刺さったのです。槍の先端は王の目を貫き、彼は意識を失います。血に塗れた王を目の当たりに王太子は気絶、王妃は悲鳴を上げ、観客席が叫び声と金切り声で一気に混沌と化します。まさにノストラダムスの予言どおり、アンリ2世は事故の10日後、酷き死を迎えたのです。


ディアーヌは途方に暮れます。公式寵姫という立場は、庇護者である国王がいてこそのもの。アンリ国王の死によって王太子はフランソワ2世として即位、これにより権威を握った母后カトリーヌ・ド・メディシスはディアーヌを宮廷から追い出します。もの静かなこの元王妃は国王に愛されることのなかった生涯を、寵姫ディアーヌへの復讐で償おうとしたのです。よってディアーヌの所持品である宝飾品の数々や王のデスクの鍵、そして王が戴冠の際、彼女に贈ったとされるシュノンソー城も全て王家の財産であるという理由から没収されてしまいます。


1566年4月25日、ディアーヌは自身の領地であったアネの城でひっそりと息を引きとりました。彼女の姿は死の間近まで、若い頃と変わらぬ美しさを保ち続けていたと言われています。


「わたしは全てを征する者を征服した」(マイケル・ケント公妃マリー・クリスチーヌ著「宮廷を彩った寵姫たち」より抜粋)
 

長年、王を支配した月の女神はこれにて、66歳の生涯に終止符を打ったのです。

 


アニェス・ソレルやディアーヌ・ド・ポワティエに代表される著名な公式寵姫は、彼女達以外にも大勢存在します。フランス国王アンリ4世によって宣言された、国内での信仰の自由を許す「ナントの勅令」、これに助力した彼の寵姫ガブリエル・デストレの存在はまさに「寵姫の鑑」としてその名が歴史に刻まれています。その他、可憐なスミレと謳われたルイ14世の寵姫ルイーズ・ド・ラヴァリエール。勿論冒頭で取り上げた怪物的才女マントノン侯爵夫人。そしてフランス・ロココを代表する国王ルイ15世の寵姫として最も名高いポンパドゥール侯爵夫人とデュバリー伯爵夫人。

 

今回は文字数の問題により、全ての寵姫たちをご紹介できませんでしたが、ディアーヌ・ド・ポワティエの生涯に表徴されるように、彼女たちの権威が宮廷から政界まで及ぶ絶大なものであった事が伺えます。マントノン侯爵夫人はその思慮深さにおいて老王ルイ14世の「秘密の王妃」に登り詰めた上に、王の伴侶となってからルイ14世統治時代の終焉まで、当時の宮廷であるヴェルサイユ宮に多大な影響力を持って君臨し、晩年は没落貴族の子女達への教育に身を捧げました。雅なるルイ15世統治時代、本来公式寵姫の称号は貴族女性のみに与えられるもの(マントノン夫人は父が犯罪者であったが、本来の血筋は貴族だった。)ですが、寵姫ポンパドゥール侯爵夫人はブルジョワジー階級出身でありながら、その美貌と知性を持って、彼女が君臨した時代はア・ラ・ポンパドゥールと称されるまでになったのです。


しかし寵姫の立場は何もかも素晴らしいものではありません。失政があった場合、国王や廷臣が難を免れる為に、彼女達は公式寵姫の役職としてこれらの責任を負う必要があります。ポンパドゥール夫人がオーストリア対プロイセンの戦争(七年戦争)にオーストリア側の味方として参戦した時、オーストリアの敗北と共に周囲から冷ややかな目が向けられ、彼女に激しい誹謗中傷が浴びせられました。これは彼女の死因である過労死と直接結びついたことでしょう。ルイ16世妃マリー・アントワネットがフランス革命の際、集中的に糾弾されたのは、マイホームパパであった国王ルイ16世に公式寵姫がおらず、責任を負う役割が存在しなかった為だとも言われています。

 

 

 

○ドゥミモンド(裏社交界)の誕生


フランス革命の時代、民衆が絶対王朝への不満を胸にフランス全土が争乱の場と化す中、公式寵姫の存在は王政の象徴として姿を消します。第一共和制、第一帝政と時が経った1814年、ウィーン会議によりブルボン朝が復活。復古王政の時代としてルイ16世の弟がルイ18世として即位しますが、旧体制では無く立憲君主制が取られたが為に、ルイ15世時代のポンパドゥール夫人の様な政治に介入する愛妾など登場する事はありませんでした。


時は変わって1830年、7月革命によりシャルル10世がイギリスへ亡命した後、資本家や銀行家の擁立により、彼自身資本家でもあったオルレアン家のルイ・フィリップがフランス国王として即位します。「銀行家の王」の誕生です。産業資本家を中心とした立憲君主制のこの時代、当時の富裕層には数多の種類が存在していました。まず産業革命により商工業において成功したブルジョワジー階級と、貴族の称号を買った元ブルジョワジーの新興貴族たち、そして復古王政時代に土地などの財産を取り戻し、それを元に産業資本家となった旧貴族(ルイ・フィリップがこれにあたる)などです。新興貴族に関しては第一帝政期の頃、ナポレオン皇帝により地代収入が年一万フランある者には男爵の爵位が与えられており、これは当時の地価水準から見れば、大抵のブルジョワジーは貴族の称号を授与する事が出来たとされています。そして事実上、王政とはいえ資本主義と変わらない時代に登場した彼らは、あり余るほどの財を築いたが為に、これまで庶民の憧れであった王侯貴族の生活様式に向きを置くようになります。「嫉妬から生じた」と革命勃発に関して作家ゴンクール兄弟が発言したように、大金を握ったブルジョワジーは権力者の送る華麗なライフスタイルを我が物にする上で、フランス革命以前の美しい寵姫たちの存在を現実に求めます。こうして古代ギリシャにおけるヘタイラやルネサンス時代でのコルティジャーナの様に、ブルジョワジー達の愛妾としてクルチザンヌ(高級娼婦)が登場し、そして成金資本家とクルチザンヌの為の社交界「ドゥミモンド」が現れる事となったのです。


ドゥミモンド...半分(ドゥミ)の社交界(モンド)を意味するこの言葉は、クルチザンヌをヒロインとした小説「椿姫」を書いたアレクサンドル・デュマ・フィスが作品を戯曲化した際、題名として「ル・ドゥミモンド」と記した為に、たちまちクルチザンヌたちの社交界を表す言葉として流行したとされています。公の社交界には夫婦そろって出席するものですが、このドゥミモンドでは紳士(つまり夫婦の半分)しか出席しません。よって一般的には高級娼婦をクルチザンヌと称しますが、この時代に活躍したドゥミモンドの女性達をドゥミモンディーヌとも表記します。


ドゥミモンドは1830年の七月王政時代に始まり、その全盛期は1850年から1870年まで、つまり皇帝ナポレオン3世が統治する第二帝政の時代までです。1853年、セーヌ県知事のジョルジュ・オスマンにより、これまで路地裏さながらだったパリを衛生的かつ開放的な美しい都市へとする為、パリ改造計画が持ち掛けられ大規模な工事が進められました。上下水道の設備が充実し、凱旋門から放射線状にのびる12本もの大通りが作られ、シャンゼリゼ通りに多くの建物も増えていく中、このような高度成長期の最中にあったフランスは、現在で言う所のバブル時代を向かえていたのです。その為経済急成長に伴い、資本家となる旧貴族やブルジョワジーが増大します。とは言っても富裕層と呼ばれる人達は相変わらず国民の一握りしか存在しない訳ですから、かえって一般市民との貧富の差が大きくなってしまったのです。こうして数多くの成金資本家に見初めて貰う為に下層階級から伸し上った女性達、これらがクルチザンヌ(ドゥミモンディーヌ)です。当時貧困家庭に生まれた女性にとって、この上ないほどの富が約束されている以上、クルチザンヌになることは社会的に成功する唯一の道でした。彼女達は大都会パリに繰り出し、グリゼット(昼はお針子、夜は娼婦といった女性達)もしくは女優になる事によってパトロンを掴まえます。現在でこそ女優という職業は女性にとって憧れですが、当時の富裕層に生まれた子女にとって、わざわざ仕事に就くという必要が無い為に、栄達を望む貧困階級の女性以外、誰も女優になろうとはしなかったのです。

 

冒頭でも取り上げたクルチザンヌ、レオニード・ルブランも初めは、田舎から裸足でパリに現れた小さな子供でした。それが後に女優として人気を博し、ルイス・ティファニーまでも虜にする程「最高に高くつく女」として名を馳せます。クルチザンヌとしての地位を確固たるものにした後でも彼女は女優業を続けており、役者として非常に評価が高かったそうです。レオニードは文学にも長け「恋の軽喜劇」なる小説も出版する程でしたが、その中で「ドゥミモンディーヌの心得」なる彼女の処世術に関する書物が残っており、そこに書かれるレオニードの言葉は今にも彼女の尊大な態度が目に浮かぶように思えます。


「...もしあなたにハートがあるのなら、ハンカチにでも包んで、ポケットにしまっておきなさい。幸福になりたいと思うのなら、そんなもの、余計なものよ。...(中略)...人間の激しい情熱なんて、今を盛りとばかりに咲く花よりはかないものよ。繰り返して言うけど、私たちの目的はただ一つ。それはお金。常にお金よ。宇宙を支配するものはお金。世界の唯一の王者はお金なの。私の言いたいことはそれだけ」

 

(山田勝著「ドゥミモンデーヌ」より抜粋。)


クルチザンヌたちの華麗な日々を実現するには、レオニードの言う通りハート(心)は無用でした。彼女達の多くは貧困家庭出身である上に、家族の愛にも恵まれなかった人達です。デュマ・フィスの小説「椿姫」のモデルとなったクルチザンヌ、マリー・デュプレシは15歳になるまでの間、父親の小遣い稼ぎの為に70歳の老人の愛妾にされたあげく、父親とも近親相姦の関係まで持たされたと言われています。彼女達に心を求めて何になりましょう。男性へ対する憎悪と屈辱の念を胸に秘め、彼女達は真の愛に価値を見出さず、ただ一時の快楽のみを求めました。それは愛の無い貧困家庭出身であるが故、富裕層の男性を誘惑し、弄び、最後は破滅させる事によって、無力だった幼き頃の記憶を払拭したのです。

 


ここで当時の最も名高いクルチザンヌ、ラ・パイヴァことエスター・ラフマンの生涯をご紹介しましょう。彼女の幼少期は至って一般的で、貧窮の中で生まれ育った訳でも無く、結婚後は夫と子供に恵まれた幸せな主婦のはずでしたが、フランス王家への憎しみにより復讐の女神と化した彼女の人生は非常にドラマティックなものです。1819年のモスクワ、あるユダヤ人の家からエスターの人生は始まります。織物職人の父を持つエスターは、幼少期の頃から魔女の子と噂されるほど、何処と無く魅惑的な雰囲気を醸し出し、そして一つの物事に対する非常に高い執着心を持っていました。

17歳の頃、仕立て屋を営んでいたアントン・ヴィロインと結婚し子供も儲けますが、結婚から僅か1~2年後、彼女は家を飛び出し夫も子供も捨ててパリに向かいます。既に自身の魅力に確信が持てていたのでしょうか。一時はスラム街に引越しますが、その後すぐに著名なピアニスト、アンリ・ヘルツと出会い彼の愛人になった上、前夫と離婚をしていないまま結婚してしまうのです。この頃からエスターはテレーズという偽名を使用するようになります。

 

エスター・ラフマン

ある日の事、この重婚の花嫁は夫に連れられ、チュイルリー宮殿のレセプションへと訪れました。しかし時の国王ルイ・フィリップと王妃マリー・アメリーはエスターの出自の疑わしさを理由に面会することを拒絶し、王妃に関しては二人の結婚さえ認めなかったのです。その上パリの社交界では富と名声を誇る夫ヘルツの妻だとしても、やはり疑わしい身分故にエスターに対して冷ややかな眼差しが注がれました。彼女がフランスに激しい反感を覚えたのはこの頃で、生涯この憎しみが消える事はありませんでした。表では気にしていない様な態度を取るものの、内心では深く傷ついたエスター。彼女の気持ちを察した夫ヘルツは、妻の為にリヒャルト・ワーグナーやフランツ・リストといった一流音楽家の集うサロンを開きます。しかしエスターはこの程度では満足出来ません。数々のドレスや宝飾品を買い漁り、ついには夫の財産を使い果たしてしまうのです。しかし浪費癖が治まることもなく、彼女は多額の借金を抱える事となります。この強欲な妻を見兼ねたヘルツ家の人々は彼女を一文無しのまま追い出し、結局元の貧困生活へと戻ってしまったのでした。


そのような中、エスターに次なる転機が訪れます。それは友人であったクルチザンヌ、エステル・ギモンの勧めによりロンドンへ旅立った日の事でした。ブティック「カミーユ」のドレスを着た彼女はロンドンのコヴェント・ガーデン劇場のボックス席に座ります。コヴェント・ガーデン劇場とは当時の貴族の社交場です。エステルの勧めに従った通り、彼女はこの劇場で隣に座っていたスタンレー卿をパトロンとして掴まえる事が出来ました。しかし二人の関係は長く続きませんでしたが、1849年に最初の夫アントンが死去したとの知らせを受けた途端、晴れて自由の身になった彼女は本格的に栄達の道を進み始めます。


1851年6月5日、ある新婚カップルが結婚式を挙げました。ポルトガル貴族であるパイヴァ侯爵の婚礼です。美しいウェディングドレスを纏った花嫁は花婿の元へと進んでいきます。しかしこの花嫁エスターにとってパイヴァ侯爵との結婚は真の愛の表しではありません。白いヴェールに包まれた彼女には、彼の財産そして「パイヴァ侯爵夫人」の称号を手に入れる手段にしか過ぎなかったのです。初夜の夜明け、裸の花嫁はまるで結婚式の情景が全て夢であったかのように、非常に冷たい言葉を花婿に投げかけます。


「あなたは私と寝たかったのよね。わたしと結婚することによって、その夢が実現できたのでしょう。あなたは私に"地位"をくれたわ。それでいいじゃない。私は昨夜は少なくとも、正直な女のように振舞ってあげたわ。あなたは満足したでしょう。"地位"を手に入れたからには、私はもうあなたに用はないわ。勝手にポルトガルに帰りなさいよ。わたしはラ・パイヴァという名前で、ドゥミモンディーヌとしてパリに残るわ。」


(山田勝著「ドゥミモンデーヌ」より抜粋。)


パイヴァ侯爵は絶望の淵に立たされます。所詮利用されただけと分かった時、エスターを心から愛していた為に、彼は自殺してしまうのです。しかし悪妻エスターにはその様な事は関係ありません。彼女には既に次のパトロンが存在しました。それはプロイセンの貴族ドンネルスマルク伯爵。プロイセン王の友人である上に、国内で2番目の金持ちと噂される程の大富豪でした。伯爵がエスターに与えたサンジョルジュ広場の邸宅では、画家ウージェーヌ・ドラクロワから作家テオフィル・ゴーティエまで、これらの錚錚たる芸術家達が集まり、邸宅のサロンには彼らとエスターの機知に富んだ会話や高らかな笑い声が響き渡ったとされています。

 

1866年、シャンゼリゼ通りにある豪邸が建築されました。当時の名高い建築家ピエール・モージャンによって作られたこの屋敷は、大富豪ロスチャイルド男爵が「この屋敷に比べれば、我が家はあばら家同然。」と発言したように、シャンゼリゼ通りのどの邸宅よりも一際輝いていました。美しい彫刻が施された暖炉の他に、ダマスク織りのカーテン、セーブル皮の敷物、そして黄金で縁取られた美しいバスタブ。何もかも全てが宮殿の様に輝くこの屋敷には一人の女主人が住んでいました。パイヴァ侯爵夫人ことエスター・ラフマン、この屋敷はクルチザンヌとしての彼女の富と名声の全てを意味していたのです。

 

この豪邸以外にも彼女は数々の浪費をしています。色取り取りのドレス、数多の宝飾品、何頭もの馬...etc、一晩のディナーパーティに消費する額は現在の日本円にして6000万~7000万程、彼女の所持品の中には16世紀の古城も含まれていました。これらの浪費は彼女の虚栄心を満足させた上に、彼女が積年の恨みを抱いていたフランス宮廷へ対する復讐の表れでもあります。途方もない浪費生活を送る事によって、上流階級の婦人達から反感を買う事に彼女は一種の喜びを感じ取っていたのでした。


シャンゼリゼ通りに建てられたパイヴァ邸。この屋敷はエスターの栄光を表すものとしても勿論ですが、ロシア生まれのエスターとプロイセンのドンネルスマルク伯爵にとって重要な意味合いがありました。それはシャンゼリゼ通りというパリの一等地、そしてナポレオン3世が統治するフランス帝国に居を構えるという点においてです。彼女のサロンには著名な政治家も多く訪れており、その中にはフランスの敵国プロイセンのビスマルク首相も含まれていました。彼はドンネルスマルク伯爵と友人関係にあり、お互いドイツ統一を望む同志だったのです。フランス宮廷を憎むエスターがパリにわざわざ屋敷を建てた理由、それは二人の策謀家、ビスマルクとドンネルスマルク伯爵によるフランス帝国滅亡の計画を企てる為でした。フランスの国政や軍事力を調査する為に、言わばスパイであった伯爵にとってシャンゼリゼ通りという場所は好都合だったのです。1870年、普仏戦争において第二帝政は崩壊、プロイセンがドイツ帝国として幕を開けます。プロイセンに敗れたフランスはこの時、ドイツにアルザス・ロレーヌ地方を譲渡せざる負えませんでした。ビスマルク首相はドンネルスマルク伯爵の偉業を讃えてか、この新たな所有地ロレーヌの総督に彼を任命しています。

 

1871年8月28日、エスターとドンネルスマルク伯爵が結婚式を挙げました。伯爵夫人となったエスターの胸をふと見ると、そこには美しいネックレスが...。花婿からの結婚プレゼントであるこのネックレスは、何とナポレオン3世妃ウージェニーの財宝の一つでした。ウージェニーは戦後処理としてこの首飾りをドイツに売り渡していたのです。二人の伯爵夫妻そして第二帝政崩壊を祝うこのパーティにて、エスターは自身の栄光に酔いしれていました。フランス帝国滅亡そしてフランス皇后ウージェニーの財宝を手に入れる事によって、この52歳の花嫁はやっと復讐を遂げる事が出来たのです。

 

 

 

○最後に


エスター・ラフマンの生涯は余りにも奇想天外で現実味に欠けますが、全て事実だと理解した時、彼女に対して少々恐ろしい思いを抱いてしまいます。著名なクルチザンヌは彼女以外にも数多く存在しましたが、このパイヴァ侯爵夫人エスター・ラフマンほど血も涙も無く、そして激しい性格の持ち主は他に類を見ません。彼女の晩年はスパイ容疑を掛けられたが為に、フランスから国外退去を命じられ、パイヴァ邸を捨てなければなりませんでしたが、最終的にはドンネルスマルク伯爵の居城であったノイデック城にて没しています。65歳、心臓病による死でした。亡骸はアルコール漬けにされ、ノイデック城に安置されたと言われています。アルコールで満たされた浴槽の中、死体となった彼女がぷかぷかと浮いていたと聞きますが、この不気味な死後もまた彼女らしいものです。


前述の通り、エスターの過大なる出費は彼女自身の出自故に、上流階級へのコンプレックスが生んだものでした。その他のクルチザンヌ達が浪費癖に陥ったのも同じ理由によるものでしょう。椿姫のモデル、マリー・デュプレシは貧しかった子供時代に食べることの出来なかった砂糖菓子を昼食として摂っていたとされています。そして彼女は憧れの女優ジュディス・ベルナに花束を贈る時さえ、自身の出自を考慮してか名前さえ公表しませんでした。


クルチザンヌの姿はその華麗なるライフスタイルにて、典雅の頂点に君臨しました。しかしマリー・デュプレシのエピソードに挙げられる様に、貧しき頃の面影がふと垣間見られた時、彼女達の姿が何処か痛ましく思えてならないのです。そこに見えるのは階級による貧富の差、そして男尊女卑。全人生を階級差に対する復讐の炎で燃やした彼女達は、果たして本当の幸福を掴めたのでしょうか。それともハートの無い彼女達は幸福の意味さえ見出す事が出来なかったのかもしれません。


ここで彼女達に対する一般民衆の反応はどの様なものだったのか、一つ述べておきましょう。現代人の感覚では理解し難いものですが、彼女達の存在は一種の偶像として評価を得ていました。巷では彼女達のブロマイドが数多く売られ、言わば市民階級から大富豪へと伸し上った存在として、一般民衆の憧れの的となっていたのです。彼女達はウォルトなどに表徴されるオートクチュールのモデルも務め、19世紀中期からの水着の流行も彼女達による旋風でした。


高級娼婦に対する評価の表れとして、第二帝政期を全盛としたクルチザンヌ(ドゥミモンディーヌ)以後、19世紀末尾にはココットと呼ばれる女性達が登場した事も重要です。ココットとはクルチザンヌの意志を継承した女性達を指し、彼女達はクルチザンヌを、男性社会に呑み込まれる事無く、個我を確立した女性として尊敬の眼差しを向けていたのでした。1884年、ナポレオン法典により禁止されていた女性の離婚訴訟が認められ、これにより女性の権利への認識が進められるようになります。ファッションの章でもご紹介したように、1880年代では婦人服に男性服の影響が見られ始めたのはこの為です。賃金労働に従事する女性が増え、彼女達はスーツ仕立ての婦人服を着用するようになります。現在のキャリアウーマンといった女性達は、このココットから流れを汲んでいるのです。その為ココットそしてクルチザンヌの存在は現代女性に貢献したと言っても過言ではありません。彼女達は純愛に喜びを見出す事はありませんでしたが、クルチザンヌとして、たった一人で独立した彼女達の姿勢は現代人にとって賞賛に値するように思われます。

 

参考文献

 

マイケル・ケント公妃マリー・クリスチーヌ著「宮廷を彩った寵姫たち」

木村泰司著「美女たちの西洋美術史」

永竹由幸著「オペラになった高級娼婦」

山田勝著「ドゥミモンディーヌ」

 

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