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The Portrait of an Empress

この記事は数冊の書物を参考に書いた「皇妃の肖像」です。

なお掲載している肖像画やポートレートの画像はパブリックドメインのものです。

(お人形の写真に関しては管理人の私物ですので無断転載はお断り致します。)

1873年8月、1867年創立から数多のお人形を発表したブリュ社は、ある魅力的なファッションドールを商標登録します。真っ直ぐに整った鼻筋に切れ長の美しい瞳、そして気品を感じさせる微笑を浮かべた口元。その名も「スマイリング・ブリュ」は、今日ではその比類ない顔立ちにより、ブリュ・ジュン等と並びブリュ社を代表するお人形の一つとして知られています。


その毅然とした佇まいは、フランソワ・テメール氏の説によれば第二帝政期の皇帝ナポレオン3世の妃であるウージェニー・ド・モンティジョをモデルに製作したとされ、ジュモー・トリステやパリ・ベベなどと同じく、製作のモデルになった人物が具体的に判明している貴重なお人形の一つです。

 

“French Bisque Smiling Poupee by Leon Casimir Bru”

 

刻印「E」のスマイリング・ブリュ。

ウィッグ・ドレス共にブリュ・オリジナルのコンディション。

スマイリング・ブリュが商標登録された1873年、この年は第三共和制のさなかであり、普仏戦争での大敗を期に退位を余儀なくされたナポレオン3世が長年の持病によりこの世を去った時代でした。ウージェニー皇妃に至っては1870年に、共和制樹立を望み暴動を起こす民衆から、命辛々英国へ避難したばかりであり、1873年当時のフランスでは既に過去の皇妃でしかなかったのです。


この様な動乱と混沌の時代に帝政崩壊の元凶とされた彼女をモデルとして、なぜスマイリング・ブリュは作られたのか。私は常々疑問を感じておりました。1873年というこの年に意味があると感じた私は、スマイリング・ブリュとウージェニー皇妃、この二つの関係性について個人的な解釈を踏まえつつお話できたらと思います。

 

ウージェニー皇妃はどのような人物であったのでしょうか。


1826年5月5日、スペイン南部アンダルシア地方のグラナダにて、テバ伯爵(後のモンティホ伯爵)の次女としてマリー・ウージェニー(スペイン語での発音は「マリア・エウヘニア」)は産声をあげます。焼け付くばかりの眩しい太陽の中、首府マドリッドで育ったウージェニーは赤みがかったブロンドの美少女として成長し、アンダルシア生まれらしい情熱と大胆さを持ち合わせた、非常に活発な少女時代を送りました。


ちなみに彼女が誕生した5月5日、この日のグラナダでは大地震が起こり、母マヌエラは恐怖のあまり庭園の植え込みのなかでウージェニーを産み落としたとされています。このエピソードはかのフランス王妃マリー・アントワネットがウィーンで誕生した際、リスボンで大地震が起こり、死者6万人を数える大惨事になったとされる物語から、生涯ウージェニーが手本として仰いだマリー・アントワネットと彼女との、運命的な類似を感じさせるものです。

娘時代のウージェニーと、パカの愛称で呼ばれた姉フランシスカ

さて母マヌエラは年頃のウージェニーを是非とも立派な紳士と結婚させたいと思うものの、自由奔放なウージェニーは婚約話に中々首を頷きません。魅力的な伯爵令嬢の彼女には貴族や富豪、著名な文人などといった多くの婚約立候補者がいたにも関わらず、平凡な結婚生活など考えられなかったウージェニーは婚約を拒否するばかりでした。


しかし小さな頃、親しい友人としてモンティホ家のサロンに出入りしていた作家スタンダールによる、英雄ナポレオン1世の魅力的な物語を夢中で聞いていたウージェニーは大ナポレオンへの心酔者でもありました。その為当時モンティホ家の常連であったナポレオン公(ナポレオン1世の弟ジェローム・ボナパルトの息子)には特に魅了され、大ナポレオンの面影をプリンスに見出したウージェニーは彼との婚約を少なからず考えたほど、彼女の心の中においてボナパルト家の存在は非常に大きなものだったのです。


そして後の1849年4月、ウージェニーが母と共にパリを訪問中、マチルド皇女の邸宅である出会いを果たします。その相手はルイ・ナポレオン、後のナポレオン3世となる未来の皇帝であり、ナポレオン心酔者の彼女にとってまさに運命の瞬間でした。


ルイ・ナポレオンは1808年4月20日、ナポレオン1世の弟オランダ王ルイ・ボナパルトとジョゼフィーヌ皇后の私生児オルタンス・ド・ボアルネの息子として誕生しました。ルイ・ナポレオンが7歳の頃である1815年、ワーテルローの戦いに敗れたナポレオン1世は失脚し第一帝政は崩壊。ヨーロッパをナポレオン戦争以前(正統主義)に戻すことを概念としたウィーン会議によりブルボン王家が復活し、立憲君主制ではあるものの王政復古の時代が訪れます。新たに即位した国王ルイ18世はナポレオンの残党を厳しく追跡した為に、ボナパルト家の子孫であるルイ・ナポレオンはフランスからの亡命を余儀なくされ、スイスのアレーネンベルクの城で母オルタンスと共に不遇な少年時代を過ごさなければなりませんでした。

ルイ・ナポレオンこと皇帝ナポレオン3世

ルイ18世死去後、新たにシャルル10世が即位すると、過去の特権階級たちを優遇する政策を取り始めたことにより国王への反発が高まり、ついには1830年、七月革命へ発展します。大ナポレオンから受け継いだ野心家の血が騒いだのでしょうか。この頃ローマにいたルイ・ナポレオンは七月革命の情報を聞きつけてからというものの、イタリア統一などをはじめとする革命運動に積極的に参加するようになります。


1830年7月、自由主義者であるオルレアン家のルイ・フィリップが資本家や銀行家といった大ブルジョワジーに擁立されて新たにフランス王として即位、七月王政を樹立します。母オルタンスはルイ・ナポレオンを是非ともフランス軍に入隊させたいとルイ・フィリップ王への期待を込めましたが、結果は全くの期待はずれ。軍への入隊どころかフランスへの帰国さえ認められませんでした。1836年ルイ・ナポレオンは陰謀家ペルシニーと結託し、ボナパルト家のフランス帝政復古への思いを胸にストラスブールでクーデターを起こしますがあえなく失敗。アメリカに逃亡した後、1840年に港町ブローニュで再びクーデターを起こしますがまた失敗し、とうとうアム城塞に投獄され終身刑の判決を受けるのです。


しかしこのまま引き下がるルイ・ナポレオンではありません。1846年5月、石工職人に扮装しアム城塞を脱獄した彼はロンドンに身を落ち着け、当時まだ23歳の裕福な情婦ハリエット・ハワードの援助により、彼女と共に次なる作戦を画策します。


この頃のフランスは七月王政に不満を募らせた民衆が溢れかえった時代でした。原因は立憲君主制であるにも関わらず実際には大資産家にしか政治への参加は認められなかった為であり、政府反対派の推進者達による「改革宴会運動」(パンゲ)に刺激された労働者たちは普通選挙制を求めて、政府への怒りを露にしました。そして1848年2月、政府がマドレーヌ広場で行われるはずだった改革宴会運動を禁止したことを引き金に民衆の怒りは爆発。二月革命へと発展します。激昂した民衆はパリのあちこちでデモ隊を作り、キャプシーヌ大通りでの軍隊と民衆の衝突では80人あまりの死傷者を数えるなど凄惨な状況を極めました。ルイ・フィリップ王は同日の午後4時に退位し、アメリー王妃と共に命辛々パリから辻馬車で逃避します。


二月革命によって再び樹立された第二共和制では当初、ブルジョワ共和派と社会主義者が連携していましたが、国立作業場(失業した労働者に職を与える公共事業)の存続をめぐって対立が起き、1848年4月の総選挙によって社会主義者が大敗したため、国立作業場が閉鎖されることとなります。これが六月蜂起を招く原因となり、一万人の死傷者を出したパリは血の海と化しました。そしてこの一件によりブルジョワジーは社会主義者に自身の立場が脅かされることを恐れて、これ以上は革命を求めず保守化します。これにより市民革命は幕を閉じることになるのです。1848年11月21日に共和国憲法が布告されたことにより、人民投票による任期4年の大統領が選出されることになった当時、ブルジョワジーや平民たちは政治的混迷を収拾しつつも市民革命の諸成果を保持する強力な指導者を求めていました。


そこに再び現れたのがかの大ナポレオンの甥であるルイ・ナポレオンでした。かつての英雄の血を引くこの男に民衆は漠然とした期待を寄せ、そしてミス・ハワードによるルイ・ナポレオンの大々的な宣伝キャンペーンによる成果もあり、1848年12月の選挙にてルイ・ナポレオンは550万票という圧倒的な投票数を得、見事大統領に選ばれたのです。


ウージェニーがパリへ訪れた1849年、この時ルイ・ナポレオンはフランス大統領としてエリゼ宮を支配していました。そして同年4月、ルイ・ナポレオンの従妹マチルド皇女の邸宅で催されたパーティーにて、ウージェニーと大統領は運命の出会いを果たします。

 

「あの赤毛の美女は一体誰だ。」

 

マチルド皇女に質問するルイ・ナポレオンの目には、当時23歳の輝くばかりの伯爵令嬢ウージェニーの姿が。大統領は完全に一目惚れをしたのです。


この頃のフランスの政情は相変わらず不穏な状況が続いていました。秩序党の新内閣は集会や結社及び言論の自由を禁止した上に、都市部の労働者から選挙権を取り上げるべく選挙資格を居住半年から3年以上に延長し、その結果300万人から選挙権を剥奪します。普通選挙制を求めて勃発した二月革命の理想から次第に遠のく第二共和制に民衆の不満がまた募っていったのです。これらの反動政策に異を唱えたルイ・ナポレオンは権力強化に乗り出し、1851年12月2日クーデターによって武力を行使し議会を解散。秩序党の首領を逮捕させ、普通選挙の復活を布告します。1852年1月には新憲法制立と共に大統領の任期を四年から十年に延長しますが、議会内のボナパルト派の支持による皇帝就任の要請を受け、同年11月国民投票による世襲帝政への賛否が問われた後にルイ・ナポレオンは圧倒的な勝利を治め、なんと皇帝ナポレオン3世の座に就いたのです。


1853年1月22日ナポレオン3世とウージェニーとの婚約が決められた後、1月30日にはノートルダム大聖堂にて二人はついに皇帝夫妻として結ばれます。民衆の間ではナポレオン3世に見初められた美貌の皇妃としてウージェニーは当時非常に人気が高く、何よりも政略結婚ではなく恋愛結婚であったことが民衆の心を掴んだ要因の一つでした。皇妃時代のウージェニーについて窪田般彌著「皇妃ウージェニー」では以下のように述べられています。


「鮮明な濃い青色の美しい二つの目は陰影につつまれ、情感と活力と優しさに溢れていました。きわめて小さな口元は優雅さに満ち、歯は輝くばかりの美しさ。顎は品よく丸みをおび、ややふっくらと、両頬の下部へと細長い楕円をなしている。顔色はまばゆく、抜けるような白さ。...(中略)...持って生まれた気品。自然で、かろやかな足取り。そして何よりもまず、ウージェニーとしての個人と、皇妃としての法人とのあいだに、完璧な調和が保たれているのです。」


(窪田般彌著「皇妃ウージェニー 第二帝政の栄光と没落」第四章より抜粋)

 

ヴィンターハルターの筆によるウージェニー皇妃の肖像画

スペインの伯爵令嬢だったウージェニー。その運命はフランス皇妃としての地位を彼女にもたらし、皇帝ナポレオン3世統治時代「第二帝政」における最も美しい女性として絶大な栄華を極める事になります。


花の第二帝政期、第二のロココ時代とも呼ばれたこの時代は1852年から1870年までと僅か18年程の歳月であったとはいえ、フランスが最も栄華を極めた時代と言えましょう。ナポレオン3世はオスマン男爵によるパリ大改造計画や、フランス各地に鉄道を敷くなどして大規模な工業化を促進し、これは失業者たちの救済にもつながった上、ブルジョワジーの期待にも応えることになりました。上下水道の設備が充実し、エトワール凱旋門から放射線状にのびる12本もの大通りが作られ、デパートの誕生をはじめとする多くの建造物が増えていく中、このような高度成長期の最中にあったフランスは、現在で言う所のバブル時代を向かえていたのです。


ウージェニー皇妃による宮廷は、彼女が手本としたフランス王妃マリー・アントワネットの宮廷を思わせる大変優雅なものでした。皇妃によるファッションは瞬く間にヨーロッパ中の注目の的になり、ロココ期のパニエを思わせるクリノリンや、黒いシャンティーレースを初めとする様々なレースを爆発的に流行させます。そして何よりも皇妃の親友メッテルニヒ侯爵夫人パウリーネの紹介によりオートクチュールの開祖とされるクチュリエ、シャルル・フレデリック・ウォルトを支持及び後援したことは何よりものファッション史への偉業でしょう。ドレス製作において素材を何よりも重要視したウォルトのドレスは、最高級のリヨン製絹織物を使用したという点においてどのメゾンのドレスよりも際立っており、リヨンの繊維産業の再生にも貢献したのです。皇妃の身に纏うドレスは必ずや1回か2回ほど着用されただけで女官へ与えられたとされており、女官の中にはこれらのドレスをアメリカに売り飛ばし大儲けしたというエピソードも残っています。


しかし魅力的なウージェニー皇妃に対し婚約当初から憎悪の念を抱く人物も少なからず存在しました。ナポレオン3世の従妹マチルド皇女を初めとする宮廷人たちです。第二帝政というまだ誕生して間も無い不安定な帝政の基礎を固めるには王族の出であるプリンセスを妻に迎えるべきと言う意見が数多くあり、伯爵令嬢ウージェニーに対する彼らの待遇は非常に厳しいものでした。特にマチルド皇女はウージェニーの美貌に対する嫉妬故に、愛人に皇妃の陰口をぶちまけるというエピソードが存在する程、ウージェニーを宿敵とみなしていたとされています。


そして何よりもウージェニーを苦しめた苦悩の一つ、それはナポレオン3世の常軌を逸した「女好き」にありました。自室へ女中を引きずり込み無理やり犯したとされる13歳の時以来、彼は止まる事を知らない性欲の持ち主だったのです。ウージェニーとの婚約以前から愛妾だったミス・ハリエット・ハワードをはじめ、皇帝ナポレオン3世には数多くの寵姫たちが存在しました。イタリア解放のためにサルディーニャ王国宰相カヴールに遣わされた美貌のスパイ、カスティリョーネ伯爵夫人ことヴィルジニア・オルドイーニや、シャンゼリゼ通りに豪華なオテル・パルティキュリエールを構える高級娼婦パイヴァ侯爵夫人ことエスター・ラフマン。その他かのプロイセンの宰相ビスマルクも夢中になった皇妃の女官ラ・ベドワイエール夫人や、「陽気なあばずれ」と渾名された元舞台女優マルグリット・ベランジェなど、これらの数多の女性達が彼とベッドを共にしたのです。


彼の好色ぶりはやがて健康面に被害を及ぼします。尿道疾患や結石に悩まされるようになった皇帝は激痛を和らげるために薬の服用量を増やし、やがて副作用のためか放心状態に陥ることが多くなるのです。顔はみるみるやつれ果て、思考さえもままならない皇帝ナポレオン3世の姿。過度な浮気性故に皇妃に頭が上がらない皇帝は政治面においても妻の意見に遠慮し譲歩するようになります。ウージェニーの政界における影響力は日増しに増大し、自身の一人息子である小さな皇太子ルルー(ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ皇太子)のために、ついには皇妃自身が摂政として政権の表舞台に立つことになりました。

ウージェニー皇妃と小さな皇太子ルルー

1861年8月、ヴァカンス中の皇妃の元にメキシコ貴族ホセ・イダルゴが訪れました。ウージェニーにとってスペイン時代からの旧知の仲である彼は、メキシコの窮状を救済するために皇妃のもとへ駆けつけたのです。当時スペインからの独立を宣言したメキシコは内戦状態のさなかであり、革命家ベニート・フアレスによる共和派と、英仏西からの支援を受ける旧支配階級の保守派とに分かれ熾烈な戦いを繰り返していました。フアレスはメキシコ大統領になり共和派の勢力を増大させますが、保守派も対抗し争いが途絶える気配は一向にありません。ホセ・イダルゴの訴えはこの騒乱を治めてくれる君主を待望、言わば傀儡政権を必要としているとの事でした。イギリス、スペインはアメリカからの圧力により撤兵したものの、メキシコ植民地化のために出兵を続けていたフランスは現地の傀儡政権における皇帝として適当な王族を当てたいと考えます。そこでウージェニー皇妃の案も踏まえて選抜されたのがオーストリア・ハプスブルク家の王子マクシミリアンだったのです。


かの有名な悲劇の皇后エリザベートの姑であるゾフィー大公妃とフランツ・カール大公との間に生まれたマクシミリアンは、ハプスブルク支配下のロンバルティア・ヴェネチア総督に就任していたものの、本国の意向に反抗したとして兄フランツ・ヨーゼフ皇帝により解任させられた身でした。1863年、若くして既に隠棲を強いられた彼に、メキシコの皇帝という魅力的な案件がフランスから飛び込んできます。ナポレオン3世を嫌っていたゾフィー大公妃はこの案件に反対しますが、マクシミリアンの妻シャルロッテ妃の勧めもあり、ついに1864年、マクシミリアーノ1世としてメキシコの帝位に就いたのです。しかし彼を待ち受けていたのは栄光の玉座ではなく死への旅路だったのでした。他国による帝政にメキシコの人民が歓迎するわけがなく、各地でゲリラが勃発。その上南北戦争後のアメリカがフアレス政権へ武器の供給を施した為にフランス軍は窮地の状態に。あげくにフランス軍は撤退を余儀なくされるのです。


マクシミリアン皇帝がメキシコを訪れてから3年目の1867年6月19日、フランスに見放された彼はフアレスに捕らえられ、35歳という若さで銃殺刑になります。この悲惨な処刑が行われた当時、フランスは自国で二回目となる万国博覧会を開催していた時期でした。オッフェンバックの陽気なオペレッタが巷に流行し、チュイルリー宮殿をはじめとする各宮殿では連夜パーティーが開かれ、フランス中が歓声と活気に包まれていたさなか、フランス皇帝夫妻の元にマクシミリアン銃殺の報が届き、すぐに皇帝の死はフランス中に知れ渡ります。


「ハプスブルク帝国の王子が殺された」


パリの人々は初め共和派フアレスへ批難を浴びせましたが、いつしか民衆の怒りの矛先はこのメキシコ帝政の提案者である自国フランス、そしていまや政治の主導権を握るウージェニーに向けられます。「あのスペイン女」ついに彼女はマクシミリアン殺害の張本人として、このように蔑称されることになるのです。

処刑されたマクシミリアーノ1世

1870年、フランス帝国崩壊の軋みが徐々に強まります。同年6月スペイン女王イザベル2世は息子アルフォンソに王位を譲りますが、これにスペインのプリム将軍は反抗。将軍はプロイセン王家ホーエンツォレルン家の分家であるジグマリンゲン家のレオポルト王子を王位継承者として推奨し、王子はスペインの了承もあり王位継承候補者になったのです。もし彼が即位した場合、隣国スペインまでにも強靭な敵国プロイセンの勢力が伸びれば、フランスは瞬く間に挟撃されてしまいます。スペインの元伯爵令嬢であったウージェニーはこの状況を特に危惧し、いつしかスペイン国内の問題のみならず、フランス・プロイセンの外交問題にまで発展しました。


しかしレオポルト王子はあっさり王位継承を辞退。一件事態は平和に片付いたかに見えましたが皇妃は念を押し、スペインの王位候補者に二度とプロイセン王家の人間を立ててはならないと、プロイセン国王ヴィルヘルム1世に保証を要求するのです。フランス大使は西ドイツの温泉場エムスで療養中のヴィルヘルム1世を訪れ、その旨を伝えます。しかし国王はフランス側の言いがかりとして保証の要望を拒否。国王は早速プロイセン宰相ビスマルクにこの一件を伝えました。ここで狡猾な策謀家ビスマルクの出番です。彼はこの一件を「フランス大使がプロイセン国王を脅迫」と改竄し、歪曲した内容を新聞紙上にばら撒いたのでした。これがあの悪名高いエムス電報事件、ナポレオン戦争での恨みを晴らそうとするプロイセンの挑発にフランス帝政は激怒します。1870年7月19日、フランスはプロイセンへ宣戦布告し普仏戦争が勃発するのです。


しかし強大な軍事力を誇るプロイセンとの戦いを前に、フランスには既に勝ち目などありませんでした。もはや持病により馬に乗る事も歩く事さえもままならない皇帝ナポレオン3世に前線の指揮をする力は残されていなかったのです。結局フランスはあっさりと大敗。皇帝は10万人の軍隊と共に降伏する運命となってしまったのでした。


プロイセンに捕虜とされた哀れな皇帝にウージェニーは激怒します。不名誉な敗北を遂げた皇帝、この肩書きは皇帝の息子ルルーへの負のレッテルでしかなく、ウージェニーの母親としてのプライドはずたずたに引き裂かれたのでした。そして1870年9月4日、普仏戦争の敗北により拘束状態にある皇帝を知った民衆は、摂政であるウージェニーへの怒りを露にし、再び共和制樹立を叫びながらチュイルリー宮殿へと押し寄せます。


「あのスペイン女を打ち倒せ!」


第二帝政崩壊の瞬間。召使は既に逃げ出し、忠実な廷臣だけが皇妃のそばに残された中、窓の外から聞こえるあまりに大きな怒号に皇妃の脳裏にはあのランバル公妃の悲劇が過ぎります。1792年、王妃マリー・アントワネットの親友であったランバル公妃は九月虐殺の折に惨死を遂げ、生首を槍の矛先に突きたてた凄惨たる姿となって、ダンプル塔の王妃の元に帰ってきたのです。


自身の死を予感したウージェニーはチュイルリー宮殿から脱出を図ります。チュイルリー庭園は激昂した民衆で黒山の人だかりとなっていた為に、ルーヴル美術館を経由して何とか宮殿を抜け出しました。皇妃の財布には一銭もなく、手元にあるのはハンカチーフ二枚のみ。侍女のルブルトン嬢と共に辻馬車に乗り込んだ彼女は道中の手助けもあり、やっとの思いで英仏海峡を乗り越え、イギリス海峡のワイト島左岸ライドに辿り着きます。


9月4日、この日の夕方にはパリ民衆の蜂起により共和制が宣言、臨時政府も樹立され、第二帝政は完全に幕を閉じました。ライドに辿り着いた際、染みだらけのぼろぼろのドレスを纏ったウージェニーの姿は、宿泊しようとした最初のホテルで断られた程、誰をも魅了した輝かしい皇妃時代の姿とは違い、あまりに惨めなものでした。ようやく宿泊先が見つかり一息つくウージェニー一行。しかしもう彼女はウージェニー皇妃ではなく、ただのスペイン女にしか過ぎません。皇妃そして摂政の地位を奪われた彼女にはもう一筋の希望しか残されていませんでした。皇太子ルルー、愛するわが息子がいつかナポレオン4世としてフランスを支配する、彼女の心は皇太子への希望で一杯だったのでした。


しかしウージェニーの悲劇はこれだけでは終わりません。この後の彼女には絶望的な運命が待ち構えていたからです。
 

ウージェニーが命辛々フランスからイギリスへ逃避した当時、皇太子ルルーはベルギーのナミュールに滞在しており、後にイギリスで母と再会を果たします。ヴィルヘルムスヘーエの館に幽閉されていたナポレオン3世も1871年1月の独仏休戦条約後、妻子とイギリスで生活することが許され、皇帝一家はケント州のチスルハーストにあるキャムデン・プレイス館にようやく身を落ち着けたのです。


1871年3月、この頃のフランスでは労働者が権力を握ったパリ=コミューン(社会主義政権)が樹立し、臨時政府との対立を深めました。同年5月22日から28日にかけては「血の週間」と呼ばれる、臨時政府軍のパリ=コミューン鎮圧による凄惨たる殺戮が歴史に刻まれます。ウージェニーの皇妃時代に王宮として使用された美しきチュイルリー宮殿は、この時コミューン側の兵士によって放火され、瓦礫の山と化しました。そしてついにパリ=コミューンは壊滅、同年8月にはフランス共和国大統領としてアドルフ・ティエールが就任します。


フランス国内では王政復古や帝政の復活も企図される中、ナポレオン3世率いるボナパルト家の人々も次なる帝政を夢見、新たなクーデターさえ画策する程でした。ナポレオン3世死後、1874年3月に18歳を迎えた皇太子ルルーは旧帝政時代の高官達により「ナポレオン4世」と呼ばれ、きっと息子は未来の帝政の支配者になるだろうと母ウージェニーは期待に胸を一杯にします。しかし当の皇太子にとってナポレオン4世という肩書きは重荷であり、母からの過剰な期待も彼にとって煩わしいものでしかありません。彼はイギリスの連隊に入り、青年貴族としての自由を享受します。


1878年、南アフリカにてイギリス植民地支配に反乱したズールー国王によりズールー戦争が勃発すると、皇太子自身とは全く無関係の事柄であるにも関わらず、彼は戦争への参加を希望し英国遠征軍に入隊します。勿論母ウージェニーは反対しますが、皇太子は耳を貸しません。これはウージェニーから長らく束縛を受けてきた皇太子の初めての反抗でした。そして悲劇は起こります。1879年6月1日、哨戒部隊に参加し前線に赴いた彼はズールー族による猛反撃に遭い、23歳という若さで帰らぬ人となったのです。皇太子の死を知ったウージェニーにはもう暗闇しか残されていませんでした。二度の流産を経験しやっとの思いで生んだ皇太子ルルーは、無残にも虐殺され、戦場の僻地で息絶えたのです。もうウージェニーにとって帝政の復活などどうでも良い事でした。1873年1月9日に亡くなった夫ナポレオン3世にはじまり、姪、息子、そして実家の母マヌエラも亡くなります。1879年末期、50歳を超えたウージェニーは完全に孤独となったのです。

 

 

 

1875年に第三共和国憲法によって正式に第三共和制が発足しますが、スマイリング・ブリュが商標登録された1873年、この年は先ほども申しましたように共和制樹立への反動によって君主制復活の声が少なからず上がった時代でした。そして大統領アドルフ・ティエール失脚後、1873年5月に新たに就任した王政主義者マクマオン大統領は王政復古に尽力を注いだ事で知られ、丁度商標登録と同じ年月である同年8月、ブルボンとオルレアン両王家合併による王政復古も計画され、王政及び帝政復活を夢見る人々には少なからず希望があった時期でもありました。

 

ブリュ社が新しいお人形を製作する際、あえてウージェニー皇妃をモデルに採用したのは、皇妃がファッションの流行における非常に重要な人物であり、最先端のモードを纏ったファッションドールにふさわしかった為でしょう。また過ぎ去りし第二帝政の栄華復活への願望を人々に喚起させる役割を担っていたようにも思えます。

 

お人形を購入する階層は労働者や社会主義者では無く、おそらく君主制を望む貴族階層などといった上流階級でしょう。当時子供の玩具であったファッションドールに過去の皇妃ウージェニーの姿を反映させたのは、もしかしたら第二帝政の全盛期を知らない子供達へ向けてのある種のメッセージであり、子供達の代に再び華やかな帝国が蘇ることを期待したお人形なのかもしれません。

 

ウージェニーは1920年7月11日、94歳という高齢で亡くなりました。若き日の彼女の美貌は現在ヴィンターハルターの肖像画において、スマイリング・ブリュと同じく永遠に輝き続けています。スマイリング・ブリュとウージェニー皇妃、この二つの存在からは、過ぎ去りしフランス帝国の残照を感じずにはいられません。

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